NHK BSで【広重ぶるう】がドラマ化決定!原作本を読んでみたので、2024年3月の放送前にラスト結末までをネタバレいたします。
長文なので、素早く結末を知りたい方は目次を活用すると便利です
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【広重ぶるう】登場人物(キャスト)
- 歌川広重=安藤重右衛門(阿部サダヲ)
- 加代(優香)…広重の妻
- 葛飾北斎(長塚京三)
- 歌川国貞(吹越満)…2代豊国となる(厳密には3代)
- 竹内孫八(高嶋政伸)…保栄堂の主人
- 安藤十右衛門…広重の祖父
- 岩戸屋喜三郎…老舗の版元 栄林堂の主人
- 歌川豊広…広重の師匠
- 岡島武左衛門…広重より5歳年上で兄のような存在。狩野派で画を学ぶ
- 歌川豊国…人気絵師
- 寛治…腕の良い摺師
- 安藤おしづ…十右衛門の後妻
- 安藤仲次郎…祖父とおしづの間にうまれた子。広重にとっては年下の叔父
その他のキャスト:勝村政信、笹野高史、渡辺いっけい、黒沢あすか、中島ひろ子、小松和重、前野朋哉、山本裕子、みのすけ、若林時英、野添義弘
【広重ぶるう】原作の簡単なあらすじと感想
【広重ぶるう】は浮世絵師・歌川広重の半生を描いた小説。作者の梶よう子さんは、子供のころから時代劇好きで、ほとんどの作品が時代小説です。『広重ぶるう』は第42回新田次郎文学賞を受賞しています。
正直、私は時代劇や時代小説をあまり好みません。時代劇は勧善懲悪や人情ものばかりで、歴史的な知識がないと楽しめない印象があったからです。
【広重ぶるう】も、うだつの上がらない広重と献身的に支える妻 加代(優香)、そして広重を毒舌で支えようとする版元の喜三郎、そりの合わない父親らが、いかにも『時代劇』の定番という感じで登場。何人もの歌川一門の名前が出てくると「覚えられるかい!」と怒りさえ覚えました(←歴史だから仕方ないんだけど)
その上、【広重ぶるう】は、359ページもある長編でもあり、ドラマ化がなければ、読むこともなかったと思います。
が、読み進めているうちに、広重の成長や周囲の人たちの広重への愛情に、3回も涙してしまいました。
歌川広重の遺した浮世絵は、ゴッホが模写するほど夢中にさせたと言われています。広重は風景ばかり描いているので「浮世絵はきれいだけれど、何がそこまですごいのかわからん」と思っていましたが、特に『名所江戸百景』への並々ならぬ想いを知ると、全く見る目が変わってしまいました。
大好きな事があって、それを職業として生きていきたい人には、ぜひとも触れて欲しい作品です。
【広重ぶるう】原作あらすじネタバレ
※原作中、広重は本名である「重右衛門」と呼ばれていますが、本記事では途中から読んでもわかるように「広重」としています
※原作内の難しい表現は、私なりの解釈で現代の言葉に書きかえています
1話|一枚八文
安藤重右衛門(阿部サダヲ)
歌川広重(阿部サダヲ)こと安藤重右衛門が大好きな朝湯を楽しんでいると、妻の加代(優香)が困っていると伝言が届きます。広重が約束を破り、店に来なかったため、版元の栄林堂主人岩戸屋喜三郎が足を運んできたのです。
喜三郎は広重の亡き師匠歌川豊広から「面倒を見てやってくれ」と頼まれており、絵が売れない広重を気にかけていました。広重は、喜三郎から『南総里見八犬伝』を書いた曲亭馬琴に紹介してもらった結果が悪かったことを報告していませんでした。
この時、先代から「広重」の名をもらって19年の月日が流れていました。
火消しの嫡男として生まれた広重
広重は、定火消同心安藤源右衛門の嫡男として生まれました。子供の頃から絵が好きだった広重は、狩野派で画を学んでいる岡島武左衛門と親しくなります。武左衛門は与力の嫡男で、5歳ほど年上でしたが、とても気さくに接してくれました。しかし、どんなに画が好きでも、2人はいずれ家をつがなければならない身でした。
父の死と祖父の結婚
13歳の時、広重は父と母を次々と亡くし、安藤家の当主となります。祖父、安藤十右衛門は、入り婿だった広重の父を葬儀の帰りに侮辱します。十右衛門は、火消と言う職業にありながら、気弱だった婿が不満だったのです。その上、十右衛門には近々、若い女と再婚する予定があり、喪中になったことは結婚を先延ばしにしなくてはならない不都合でした。
幼くして当主となった責任の重さと、怒りのあまり、広重は祖父に
再婚相手との間に男児が生まれたら、家督を譲り、家を出る
と宣言してしまいました。
その後の2年間、広重は祖父からの悪口に耐え忍んでいました。武左衛門からは「もう自分では教えられない。一緒に狩野派の塾に通おう」と誘われたものの、そんなお金はありません。
そこで広重は、町絵師になろうと決めます。広重は、狩野派に画才を認められた自分なら、簡単に町絵師になれると思ったのです。
人気絵師歌川豊国の弟子にしてもらおうと、意気揚々と画をもって行った広重は、あっさりと門前払いされ悔しがります。しかし、たまたま出てきた豊国の出世頭、歌川国貞(吹越満)の迫力に気おされ、身震いしたのでした。
妻の加代(優香)と、年下の叔父の仲次郎
広重には、10年前に結婚した加代(優香)と言う名の妻がいました。加代も火消の家の娘でしたが、小柄で線が細く、はかなげな女性でした。喜三郎も加代に対しては、丁寧に対応します。
いつもとは違い豪勢な朝食が用意され、広重は大喜びします。しかし、喜三郎は加代の粗末な格好から無理をしてくれたに違いないと言います。「仕事がない」と開き直る広重に、喜三郎は
「絵師で食っていきたいなら、枕絵を書けばいい」
と言います。なぜなら、広重はすでに20歳年下の叔父(祖父と後妻の子ども)仲次郎に家督を譲っており、仲次郎が元服したら、広重は約束通り家を出るつもりでいました。
しかし、今の広重では、加代一人養うことは無理なことは、明らか。広重は師匠の選び方を間違えたのでは?と後悔するのでした。
歌川豊広の弟子になった後悔
広重は16歳の時に、歌川豊広の弟子となりました。豊国の弟子になれなかった広重は、とにかく絵師になって安藤家を出たかったため、次に豊広の元を訪れていたのです。
豊広はあっさりと弟子にしてくれただけでなく、1年後には「広重」の画号を与えてくれました。このことで広重は、思いあがった気持ちになります。豊広は美人画を得意としていましたが、広重は師匠を「豊国よりは劣る」と思っていました。
その師匠も、2年前に他界。かろうじて仕事を回してくれるのは、小言を言う喜三郎だけでした。
歌川国芳に差をつけられて
歌川豊国には広重と同い年の国芳という弟子がいました。才能がありながら、どうしても国貞(吹越満)の陰になってしまい、パッとしなかった国芳に、広重は勝手に自分を重ねていました。ところが、数年前に国芳は、水滸伝の武者絵で名をあげます。
豊国の死後、歌川は国芳と国貞が支えており、だからこそ広重は豊広の弟子になったことを後悔してしまうのでした。
そんな広重に、喜三郎は風呂敷包みを渡し「(自分が)帰ったら中を見るように」と言い渡し去っていきました。
ベロ藍との出会い
風呂敷の中身は渓斎英泉の描いた団扇絵でした。広重は団扇絵に、自分の求めていたものを感じ、喜三郎の店へと走って向かいます。広重は英泉の書いた画そのものではなく、今まで見たことがない藍色に衝撃を受けたのです。
これから出版される葛飾北斎(長塚京三)の富嶽三十六景にも藍色が使われると広告されており、北斎も新しい藍色を使うのだと直感しました。
喜三郎によれば、その藍色はベルリンで作られた「ぷるしあんぶるう(通称ベロ藍)」だと説明します。興奮した広重は、喜三郎にベロ藍で摺った名所絵を描かせて欲しいと頼み込みます。しかし、喜三郎は
- ベロ藍は舶来物なので高価
- 北斎も名所絵として富士山を藍で描こうとしている
- そもそも名所絵は美人画や役者絵より下に見られている
という事で、広重の頼みを断りました。わざわざ団扇絵を届けに来たのに、画を描かせてくれない喜三郎のことが、広重はさっぱりわかりません。
その上、喜三郎は「豊広師匠の画をもう一度見ろ」と掛け軸の入った桐箱を渡してきました。
葛飾北斎(長塚京三)に会いたい
ベロ藍を使った葛飾北斎の冨嶽三十六景は、大評判となります。広重はどうしても北斎に会いたくなり、お酒を手土産に家を訪ねていきました。出迎えた娘のお栄は器量が悪く、家の中は散らかり放題で驚きます。
几帳面な北斎には、あの冨嶽三十六景が、こんなに汚い家で描かれたとは信じられません。広重は家の奥にある炬燵で一心不乱に何かを描いている北斎に
北斎先生の富士はたしかに素晴らしい。画として魅せられるが、あれは名所絵でしょうかね?ベロ藍にしても、おれはああいうふうには使わねえ。
【広重ぶるう】67ページ
と、戦いを挑みます。それを聞いた北斎は、炬燵から出てきて嚙みつくような顔をし
その通り、名所のはずがねえんだよ。おれは富士だけを見て、富士だけを描いてるんだ。周りの景色は皆、富士を際立たせるための添え物だ。文句があるかっ
【広重ぶるう】68ページ
などとまくし立て、炬燵に戻ってしまいました。お栄は「あんた気に入られたんだね」と笑い、北斎の画が上手くなるよう、名所で名を成すように言って、障子を閉めてしまいました。
ベロ藍で江戸名所を描くことに
広重は、武左衛門から版元の川口屋を紹介してもらいます。川口屋は新しい絵師を探しており、広重にベロ藍を使った江戸名所を20枚描かせてくれることになりました。
広重はベロ藍を使って、北斎とも違う、江戸の空を描きたいと考えていました。そのためには、腕の良い摺師が必要です。川口屋から寛治という22歳の摺師を見つけ出してもらいます。最初は、みずぼらしい格好の広重に眉をひそめたものの、ベロ藍の性質に寛治もすっかり魅了されていくのでした。
2話|国貞(吹越満)の祝儀
初めての弟子、昌吉
1831年(天保二年)、広重の『一幽斎がき東都名所』が出版されますが、売れ行きはあまり良くありませんでした。すべてが完璧だと思っていた広重は、何が悪いのか全くわかりません。
その後も画の注文が入ることはなく、安藤家は貧しいままでした。とはいえ、川口屋からは「広重の名が広まり始めている」と聞かされ、落胆しつつも広重は新しい仕事がくると信じていました。
そんな中、広重は昌吉という子供を家に連れてきます。昌吉は広重の描いた『月に雁』に感動し、弟子になりたいとやってきたのです。初めての弟子に浮かれる広重に対し、加代(優香)は精いっぱい笑顔をつくるのでした。
書画会での屈辱と加代の秘密
名前が良くないから売れないのでは?と考えた広重は、一幽斎から一立斎へと号を変え、5両という大金をかけてお披露目の書画会を開くことにします。安藤家は妻の加代が「下女」と間違われるほどでしたが、広重はちっとも家計を加代に任せきりで、お金には無頓着でした。
川口屋の手配で、いざお披露目の書画会が開かれます。招待客の中に国貞(吹越満)がいて、広重は仰天してしまいました。書画会では、その場で画を描き販売もします。客たちの多くは、広重ではなく国貞の画を目当てに集まっていたのです。
結局、広重の画はほとんど売れませんでしたが、それ以上に、国貞がご祝儀として売れた画のお金をすべて置いていったことが屈辱でした。
しかし、国貞から「いつか自分が女を描き、広重が名所を描く合作が出来たらよい」と言われたことで、広重は「認められた」と自信を取り戻します。
家への帰り道、昌吉が指さす方向を見ると、頭巾をかぶった加代が質屋から出てくるところでした。
保栄堂の竹ノ内孫八(高嶋政伸)
相変わらず名所絵の依頼がない中、広重は火消同心の武士として、馬を幕府から朝廷に献上する仕事(八朔御馬進献)で京都へと向かいます。その道中の休息で、広重はひたすら画を描き続けました。
1か月後、京都に帰った広重を待っていたのは、竹ノ内孫八(高嶋政伸)でした。孫八は加代が通っていた質屋の親戚で、新しく保栄堂という小さな絵双紙屋を開いたばかりでした。
孫八は広重に東海道五十三次を描く依頼をします。東海道は使い古されたテーマで、広重は乗り気になれません。すると孫八は、高価なベロ藍をたっぷり使ってよいと言います。孫八は、広重が八朔御馬進献で東海道を見てきたことを知っており、絵師に旅をさせるお金が浮くメリットがあったのです。
孫八の仕事を引き受けるか迷いながらの帰り道、広重は火事に出くわします。持ち場は違いましたが、放っておくことが出来なかった広重は、率先して火消しに加わり、人助けをしました。
焼け跡を見た広重は、自分が生まれ育った江戸の風景を描き残したいと強く願います。そのために、まずは東海道を描いて売れなくてはならないと決意するのでした。
東海道五十三次(東海道五拾三次)の大ヒット
1833年(天保4年)に出版された広重の東海道五十三次(東海道五拾三次)は、思った以上の売れ行きを見せ、孫八は「葛飾北斎の冨嶽三十六景を超えるかもしれない」と興奮します。東海道すべての宿場を描き終わっていないうちから、孫八は次の仕事を考えており、他の版元も広重の元へと押し掛けるようになりました。
東海道五十三次のヒットにより、川口屋から出した東都名所も売れ始め、広重の生活は一変します。加代が質屋に預けていたものを取り戻し、広重ははじめて加代にかけてきた苦労に気がつくのでした。
たくさんの版元から接待をうけても、広重は心から喜ぶことができません。喜三郎だけが顔を見せることがなかったからです。広重は「いつの日か喜三郎がやってきたら嫌味を言ってやろう」と想像するのでした。
葛飾北斎(長塚京三)の言葉
広重はいつもの朝湯で、葛飾北斎と鉢合わせます。北斎は広重の東海道五十三次を見に来た帰りでした。
北斎は、自分と広重の画は、ベロ藍の使い方だけでなく、根本的に違うとし、改めて冨嶽は名所絵ではないと言います。その上
おめえがおれと同じ土俵に上がれると思ったら、大間違いだ。おれはな、誰かと競うわけじゃねえし、銭金だって望んじゃいねえ。自在に万物を描ける絵師になりてえんだ。
名所絵なんざおめえにくれてやる。
【広重ぶるう】146ページ
と言い放ち、広重の反論も聞かずに消えていきました。
北斎の言葉で、広重は浮かれている場合ではないと気を引き締めます。北斎が「もう飽きた」と言った錦絵(カラーの版画)で、江戸の町を描きたいと心から思うのでした。
妹さだと、義弟の浮気
家に戻ると、妹のさだが来ていました。夫である智香寺の住職了信が、檀家の人妻と浮気をし、慰謝料を請求されていると言うのです。浄土宗において不義密通は、重罪でした。
お金が必要なのかと思いきや、さだが泣いているのは夫から「子が出来ないから、他の女に手を出した」と言われたからだったのです。それを聞いて、加代(優香)も顔色を変えて怒ります。そして「絶対に離縁はせず、堂々としているように」とアドバイスしました。
2人の様子を見ていた広重は、女はいくつも顔を持っていると、いまさら気がつきます。この時、広重は40歳近く。自分の描いた美人画が売れなかった事にも納得するのでした。
3話|行かずの名所絵
旅に行かず、名所へを描く依頼とプチ家出
孫八(高嶋政伸)から近江と京の名所絵の依頼が入ります。あまり気乗りしない仕事でしたが、旅に出られるのならと思い直します。しかし、孫八は竹原春朝斎の描いた都名所図会などを参考にして、広重の名所絵を描けと言うのです。
「実際の景色を見ず、人の画を写すなんてできない」と言う広重に、孫八は「何様のつもり」と版元に従えばいいんだと一蹴します。どんなに売れても、版元がいなければ絵師としてやっていけません。広重は「いつかベロ藍で江戸の空を描くためだ」と損得計算をし、我慢することにしました。
かくして売り出された近江八景、京都名所、浪花名所図会は評判を呼び、またもや版元が広重に描いて欲しいと押し掛けます。もはや広重は仕事にもお金にも困ることはなくなっていましたが、どこかで虚しさを感じ疲れてもいました。
この後、広重は1か月ほどプチ家出をし、小机(横浜)にある松亀山泉谷寺まで歩いてたどり着きます。偶然にも泉谷寺は、さだの夫がいたことがある寺で、その縁で広重は寺の杉戸に浮世絵(板絵著色山桜図)を描く羽目になりました。
東海道五十三次の変変わり図と昌吉
東海道五十三次の1作目「日本橋」も版木が擦り切れるほど売れ、変わり図(初版に手を加え別の画にする)を出すことになります。
広重は、変わり図で増やした人物を、こっそり弟子の昌吉に描かせていました。そのことを摺師の寛治にだけ打ち明けます。
「広重さんが描くのとほとんど変わらない」と感心する寛治に「褒めすぎだ」と言いながらも、広重は昌吉の才能と成長を喜ぶのでした。
渓斎英泉が保栄堂から名所絵を出すと聞いて
変わり図の色や摺り方を相談していると、寛治が「英泉師匠が保栄堂から名所絵を出すそうですね」と言ってきます。驚いた広重が詳しく話を聞くと、渓斎英泉は木曽街道六十九宿を描くため旅に出ているとか。
自分には旅に行かせてくれなかった上、よりにもよって美人画を得意とする渓斎英泉に描かせることに、広重は納得がいきません。
ところが、孫八(高嶋政伸)は「版元がどの絵師に何を依頼しようが勝手だ」とあからさまに面倒くさそうです。さらに、「不運続きで、絵師の仕事もほとんどなくなってしまった英泉を見ていられなかった」とまで言い出します。
しかし、英泉は遊び好きで、納期を守らない版元泣かせの絵師でした。広重は「何かあっても泣きついてくるなよ」と言い残し、保栄堂を後にしました。
知らなかった加代の苦労と優しさ
久しぶりに会った武左衛門から「そろそろ実家を出たらどうか?」と言われた広重。年下の叔父にあたる仲次郎も大人になり、広重の弟子が増えており、広重もそのつもりでいました。
しかし、すっかり年老いた祖父の十右衛門から「このまま居続けて欲しい」と懇願されていたのです。安藤家はいまや、広重の支えで成り立っていました。
この話を聞いた武左衛門は、かつて加代が何度もお金を借りに来ていたことを明かします。いまさら武左衛門がこのことを話したのは、加代が広重の人物画が売れないことを
広重の素直さや優しさが、わざと目や鼻の大きさを変えたりしなくてはならない似絵を描くには仇になったのだろう
と言い、誰よりも広重の理解者であると伝えたかったからでした。
だからこそ武左衛門は、広重に実家を出て加代を大切にして欲しかったのです。
泣きついてきた竹内孫八(高嶋政伸)の事情
広重の家に、孫八が駆け込んできます。英泉が描くのを放棄したというのです。孫八は「木曽街道の続きを描いていただけませんか」と土下座をします。広重は「いい気味だ」と思いつつも、孫八の事情を聞いてやります。
実家の質屋を継いだ兄が、天保の大飢饉の中、東北で米の買い占めで荒稼ぎをし、非人道的だと逮捕されたというのです。兄を釈放するため孫八は多くのお金を使ってしまいました。
その上、予想通り英泉は旅費を使いまくっただけでなく、英泉の描いた木曾街道の売れ行きは芳しくありません。もはや頼めるのは広重しかいませんでした。
かくして広重は、孫八から旅費を出してもらい、画号を歌川重昌とした昌吉と木曽を旅し、木曽街道六十九次の続きを描くこととなったのです。
加代の死と喜三郎が来なかった理由
1839年(天保10年)10月、加代が高熱を出し倒れ、三日後にあっけなく逝ってしまいます。加代の死を受け入れられない広重は、棺桶の前で放心状態で動かなくなってしまいました。
そんな広重の前に、喜三郎が現れます。喜三郎がやってきたのは、弔問のためだけではありませんでした。
長らく顔を見せなかった喜三郎でしたが、広重が近江八景を出した頃(およそ5年前)、実は訪ねてきていたというのです。
加代は売れて人気になった広重が尊大になり、喜三郎に会いたくてうずうずしているとわかっていました。しかし加代は、広重が本当は真面目で気弱なこともよく理解していたのです。だからこそ、加代は広重がいつか折れてしまった時に、来てあげて欲しいと望みました。
喜三郎が広重にずっと会いに来なかったのは、加代の頼みがあったからだったのです。
広重は、かつて喜三郎から渡された、亡き豊広師匠の掛け軸をはじめて見て、感動のあまり息を呑みます。さらに、今の自分の画が、豊広の画風を受け継いでいることに気がつきました。
広重は、師匠、加代、喜三郎の想いに涙するのでした。
保栄堂が店を畳むわけ
保栄堂が店を畳んだ。
広重が知らせを聞いたのは、加代の1周忌を済ませ、昌吉と仕事で甲府への旅から戻った時のことでした。昌吉の叱咤激励により、やっと筆をとる気持ちになっていた広重は、愕然とします。
孫八に会いに行くと、兄と江戸を離れてやり直すとのこと。広重は引き留めようとしますが、孫八が版元をやめるのは、他にも理由がありました。
孫八は、近いうちに老中が、好色本はもとより役者や遊女を描くことに制限をかける改革をすると知っていたのです。孫八は保栄堂で、たくさんの好色本を扱っていました。
兄は釈放されたもののペナルティを課せられた身。その上、孫八が摘発されたら、今度はもっと重い罪を背負わなくてはいけないかもしれません。
なんやかんや言っても、広重は最初に売り出してくれた保栄堂に恩を感じていました。そこで、広重は孫八のために画を描くと申し出ます。孫八は感謝しつつも、決意を変えることはありませんでした。
水野忠邦による天保の改革の影響
孫八の言っていたように、老中水野忠邦による天保の改革により、江戸の町は活気がなくなっていきました。暮らしのあらゆる贅沢は禁止され、風紀を乱すものは取り締まりの対象となります。
人情本(恋愛もの)で人気の為永春水が逮捕され、版木が割られていく中、国貞(吹越満)なども新しい画を出すことは出来ませんでした。
そんな中、広重の手がける名所は安心して出すことができたのです。そのため、広重の元には次々と注文が舞い込みます。
複雑な気持ちではありましたが、歌川をささえる物として広重は「踏ん張らなくては」と思うのでした。
4話|男やもめと出戻り女
押しかけ奉公のお安
版元の天寿堂の仲介で、広重はお安という30代の離婚歴がある女を住み込みで雇うことになってしまいます。お安は、働き者でしたが、大酒飲みが原因で、勤め先を追い出されたとのこと。広重が雇うと決める前に、お安は家に押しかけてきてしまい、なしくずしで雇うことになってしまいました。
月見酒をしていると、お安は身の上話をはじめます。お安も3年間子供が出来なかったせいで離婚したとのこと。広重は、加代を想いながらも、加代とは違う安らぎをお安に感じていました。
仲次郎の早すぎる死
1843年(天保14年)、水野忠邦が失脚し、江戸は活気を取り戻します。国貞(吹越満)は、2代豊国となり、浮世絵界の景気も良くなっていきました。
広重も仕事は順調でしたが、安藤家ではまだ30をすぎたばかりの仲次郎が亡くなる不幸に見舞われます。すでに祖父の十右衛門も数年前に他界しており、広重は遺されたおしずと仲次郎の家族を金銭面で支えてやらなくてはと思うのでした。
お安との結婚生活
2か月ほど前、広重は2階建ての一軒家を新築し、引っ越しをしていました。いつもの朝湯から帰ると、朝食がひどく粗末です。「稼いでいるんだから、もっと美味いものを食べさせてくれ」と文句を言うと、お安は「どれだけ稼いでも、出ていくお金が多くて、余分なお金などない」と、早口で言い返してきます。
加代の時と同じく、家計をお安にまかせたことを、広重は後悔しながらも、2人を比べてはいけないと自分を戒めました。
昌吉の病
6日ほど前から、昌吉が体調不良で仕事に来ない日々が続いていました。心配になった広重は、昌吉が母親と暮らす家を訪れます。
昌吉はずっと前から具合が悪かったのを黙っていたのです。病名は労咳(結核)。当時、結核は不治の病とされていました。
昌吉の病気を知った広重は、ぐでんぐでんに酔っ払い、居酒屋の店主に喜三郎の家まで送ってもらいます。泣き言をいう広重に喜三郎は「嘆くより、師匠だからこそ出来ることをしてやりなよ」と励まします。
広重は、養子にまでしようとするほど可愛がった一番弟子の昌吉にできるのは、たくさん絵筆をもたせてやることだと考えます。
おりしも、喜三郎のもとには、織田信学が藩主の出羽国(山形と秋田)天童藩から、広重に200枚もの肉筆の依頼が来ていました。
広重は多くの注文を抱えていましたが、錦絵と違い肉筆は捨てられることがありません。昌吉に手伝わせれば、彼の画をこの世に残せると考え、広重は仕事を受けることにしました。
昌吉の死
織田家から依頼された肉筆の手伝いの話を聞いた昌吉は泣いて喜びます。
それから昌吉は広重の手伝いだけでなく、体調の良いときには弟子の面倒を見てやることもあり、そのまま元気になるのではと思えるときもありました。しかし、1年が過ぎたころ、大量に吐血をし、寝たきりになった後、亡くなります。
葬儀の後、広重は昌吉の母親から、病の床で描いたたくさんの画を渡されました。広重は部屋中に昌吉の画を敷き詰め、昌吉を感じながら夜を過ごすことにします。お安も気を利かせ、部屋を出ていくのでした。
さだの離婚と再婚、そしてお辰の存在
1851年(嘉永4年)、55歳になった広重のもとに妹さだがやってきます。6年前、さだと了信の間にはお辰と言う名の女児が生まれていたのですが、いよいよ離婚したと言うではありませんか。了信は吉原通いをした罪で、流罪になっていたのです。
さらに、さだは後妻の話があり、お辰を連れていけないので、広重たちに預かって欲しいと頼みます。広重は妹を怒鳴りつけ反対しますが、お安が強引に引き受けてしまいました。
お辰はとても良い子で、弟子たちにもよくなつき、家の中に笑顔が増えます。一方、さだはちっともお辰に会いに来なかったため、広重はお辰を正式に養女としました。
了信の借金の肩代わり
お辰をかわいがる日々の中、広重のもとに権蔵という借金取りがやってきます。吉原通いで了信がした借金を、有名絵師である広重から取り立てようという魂胆です。
広重はきっぱりと肩代わりを断ります。すると権蔵は「だったら、お辰に返してもらうしかない」と言うではありませんか。それは、お辰を遊女にするという意味でした。
借金のかたに「色重」として枕絵を描く
権蔵は、枕絵を描けば借金をチャラにすると提案します。侍として幕府が禁止することをしてはいけないと思ってきた広重は、貧しくても枕絵はずっと描かずにきました。そもそも、広重は女を描くのが苦手なのです。
悩んだ末、広重は豊国(吹越満)に相談します。手ほどきを受けても上手に描けない広重に、豊国は、喜多川歌麿の多満久志戯を写して練習するように渡しました。
権蔵の監視下で、広重はひたすら枕絵に挑み続けます。しかし、その画は素人の権蔵から呆れられるほど下手でした。とうとう広重は権蔵からアドバイスをもらいながら、数か月かけて艶本3冊を描き上げたのでした。
5話|東都の藍
スリの寅吉を弟子に
1851年(嘉永4年)、広重はお辰と弟子を連れ、浅草寺の節分会でスリで捕まりかけている寅吉という少年と出会います。寅吉に昌吉の面影を見た広重は、寅吉を絵師としてスカウトしてしまいました。
後から、寅吉が江戸屈指の料亭百川と親しい船大工の息子だと判明。実家はとても裕福でしたが、親とそりが合わず、寅吉は悪い仲間とつるんでいたのです。
寅吉の実家からは豪勢な重箱などが届けられ、広重たちは大喜びして、寅吉を呆れさせるのでした。
広重の艶本へのダメだし
色重の名で艶本春の世和が世の中に出ると、版元が広重の元に押し寄せてきました。あまりの出来の悪さに「いったいどこの版元で出したんだ」と文句を言いに来たのです。
版元が言いたいのは、広重の技量についてではありませんでした。広重の艶本は写しでしかなく、広重自身の面白みが全く感じられなかったのです。
そこで広重は、喜三郎がかつて枕絵を描けと言っていた本当の意味がわかります。喜三郎は、広重に人を見る目を養わせようとしていたのです。
またもや借金
版元が帰り、広重は残りの2冊の艶本を、そのまま出版させるわけにはいかないと考えます。結局、広重は版木を買い取り、書き直すことに。それにより、またもや借金を背負う事になり、二度と枕絵は描かないと決意しました。
艶本の話を聞いた豊国(吹越満)は、「いいねぇ、江戸っ子だ」と笑います。豊国からも「枕絵は、女に興味があって、面白がる奴にしか描けない」と言われ、広重はどんなに格下と言われようとも名所絵を続けようと決意します。
飢饉や改革の影響が残っており、食べるのに精いっぱいな庶民も多く、結果として娯楽である浮世絵会の勢いも落ちていました。さらに、北斎、英泉、馬琴など人気の絵師はみんな死んでしまっていたのです。
豊国(吹越満)との双筆五十三次
豊国の本題は、広重と双筆がしたいという話でした。広重が背景を、豊国が人物を描き柳亭種彦の偐紫田舎源氏をもとにした作品を作りたいとのこと。幕府の弾圧により偐紫田舎源氏は未完のまま、柳亭種彦が死んでしまっていました。豊国にとって心残りのある作品だったのです。
こうして謎解き浮世絵として出版された双筆五十三次は、大成功をおさめました。
安政江戸地震と喜三郎の死
1855年(安政2年)になり、還暦が目の前にせまった広重は、寿命を感じ「どうしても江戸名所を描きたい」と焦っていました。広重が描きためた江戸の風景は100を超え、1000近くもありましたが、どの版元も百景を出す覚悟はありません。
安政江戸地震が起きたのは、そんな時でした。幸い、広重の家族や弟子たちは無事でしたが、江戸の町はぼろぼろになっていました。広重は喜三郎が無事か気になります。するとお安は驚くことを口にします。
喜三郎さんは、半年近く前、広重が旅に出ているときに亡くなった
喜三郎は自分の死を、広重には知らせるなと言い残していたのです。加代の時と同じように、広重の筆が止まってしまうことを心配してのことでした。お安は、喜三郎の家から預かっていた紙切れを渡します。そこにはたった一行
まくらえかくな
と書かれていました。
江戸の百景で江戸を取り戻す
江戸地震後、町は広重の愛した江戸ではなくなってしまっていました。
世間では、地震を起こすと伝承があるナマズをテーマにした鰻絵が飛ぶように売れていました。あの豊国(吹越満)までもがこっそりと鯰絵を描いたようです。「双筆の続きをやりたい」と言う豊国に、広重は
先に江戸百景をやりたい。2年で終えるつもりでいる。
と宣言します。2年で百景を描き切るのは、豊国でも難しいことでした。
名所江戸百景
版元の魚屋を半ば脅し、摺師の寛治に無理を言って出した名所江戸百景は飛ぶように売れ、江戸の人々を勇気づけました。
名所江戸百景で洲崎(現在の東京都江東区東陽一丁目)を描く際には、亡き昌吉の下絵を元にし、この世に昌吉の画を残すという想いを実現させました。
【広重ぶるう】原作のラスト結末をネタバレ!感想まとめ
広重の死で終わる【広重ぶるう】
広重は2年半かかって名所江戸百景を描き上げ、続いて豊国(吹越満)との双筆五十三次も約束通り描き切りました。
【広重ぶるう】では、「まだ江戸百景の掘りと摺りが残っている」と思いながら、朝湯へ向かおうとしたところで、激しい頭痛に襲われ、倒れてしまいます。夢の中で、懐かしい声を聞きながら、広重はお迎えが来たのだと気がつきました。
その死に悲壮感は全くなく、今世でやりたいことをやり切った人だからこその幸せなゴール(あるいは通過点)のように思えました。
死を見据えながら描いた名所江戸百景
【広重ぶるう】では、現代だったら「呪われている」と噂されそうなくらい、身近な人が亡くなります。妻の加代、年下の叔父の仲次郎、弟子の昌吉は若くして命を落としました。
広重自身も還暦(60歳)を前にして、自分の死を見据えています。江戸時代の平均寿命は35~40歳程度、末期になってやっと45歳まで伸びたと言われているので、いつ死んでもおかしくない中で名所江戸百景に挑み、実現しました。
広重が、人生100年時代に生きたと仮定すると、90歳くらいのお爺ちゃんが自らブラック企業で働いた…くらいの感じでしょうか?
広重の死因は、当時流行していたコレラ(すぐに死んでしまうのでコロリと呼ばれていた)とされていますが、単なる過労死だった可能性も否めません。広重が亡くなったのは62歳の時でした。
セルフブラックな働き方をしても、まだ描き足りない!←羨ましい
広重にとって最初は圧倒される存在であった国貞(吹越満)でしたが、豊国の名を継いだころには画友にまでなっていました。豊国は、広重の死にあたり「死絵」と呼ばれる肖像画を描いています。その死絵には、広重の辞世の句が添えられていました。
東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん
「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」
極楽浄土へ行っても名所を描く気まんまんじゃないですか(笑)
【広重ぶるう】のラストでも、死んだ広重は
よしっ。家に帰るか。そうしたらまた旅だ。矢立と画帖は持っていくか。此度は長い旅路になる。
【広重ぶるう】359ページ
と思ってます(霊の状態になってるんでしょうね)。こんな晴れやかな気持ちで死ねたら最高だろうなと羨ましく思える結末でした。
【広重ぶるう】を読んで、浮世絵へ抱いていた堅苦しいイメージが一変しました!
浮世絵は、現代の漫画やエ□本に近い存在として庶民に浸透していたんですね。
この記事ではアダルティすぎて掲載できませんでしたが、広重が唯一描いた枕絵春の世和はやばいです(笑)
これをNHKはどう表現するのか?気になるところ。
ドラマでは歌川広重とその妻・加代の物語が中心とのことですが、個人的にはぜひ原作通り広重が死を迎えるところまでを描いて欲しいと思っています。