日野駅のすぐ近くで、可愛らしいお地蔵さま達を見つけました。
大きなお地蔵さまが2体並んでいて、その横に小さなお地蔵さまが6体並んでいるんです。
まるで子ども好きの夫婦を筆頭にした家族のように。
すぐ近くには、新撰組六番隊組長である井上源三郎のお墓と碑がある宝泉寺もあるので、ちょっとかすんでしまう存在かもしれません。
でも、このお地蔵様たちが並んでいる奥の建物(坂下地蔵堂)の中には、日野市の指定有形文化財である地蔵菩薩坐像(坂下地蔵)も祀られていました。
実ははちこ、何か特定の宗教を信仰しているわけではないのですが、神社仏閣やお地蔵様を見て回るのは結構好きだったりします。
せっかく写真を撮ってきたので、ご紹介しますね。
地蔵菩薩坐像(坂下地蔵)
8人家族?のお地蔵さま達です。
ずらりと並んで道行く人を見守ってくれています。
お地蔵さま達がいらっしゃるのは、坂下地蔵堂の敷地内になります。
お地蔵さま達は日野宿 西の地蔵とも呼ばれています。
今でこそ、駅周辺なので栄えていますが、その昔はこの西の地蔵よりも先へ進むと、強盗が出るような原っぱだったそうです。
お地蔵さんがいるところを超えたら…身ぐるみはがされて、場合によったら命まで…なんてことも、きっとたくさんあったんでしょうね。
まさに時代劇の1シーンが思い浮かんでしまいます。
ちなみに東の地蔵は福地蔵と言って、このお地蔵様たちが祀られているところまでが『日野宿』とされているとか。
ですから、日野宿探索のスタートあるいはゴール地点とされる方もいらっしゃいます。
大きなお地蔵様のお顔をアップにしてみました。
表情が全然違いますね。
シャープな顔つきの父さんと、ふっくらとした母さん…と勝手に想像してみます。
子どもたちの顔はよく見えませんが、父さん母さんほどはっきりとしてません。
それにしてもフェンス…ちょっと邪魔💦
いたずら防止なんでしょうか?
顔だけでもはっきり拝ませてもらえると嬉しいですね。
インパクトがあるのはご家族地蔵様なのですが、どうやら有形文化財に指定されている地蔵菩薩坐像(坂下地蔵)は、こちらの「地蔵堂」の中にお祭りされているお地蔵様のようです。
説明が書かれた看板に「銅造」って書かれてますよね。
1713年に江戸小舟町の井田八左衛門が釈宗威信士菩提のために造ったそうです。
『井田八左衛門」『釈宗威信士菩提』と調べてみても、坂下地蔵に関することしか出てこないんですけどね。
232人もの人間が力を合わせて造ったお地蔵様なので、すごい方だとは思うんですが…。
『釈宗威信士菩提』って戒名っぽいので、本名はわからなくなっちゃったんでしょうか?
江戸小舟町というのは、日本橋小舟町のことだと思われます。
大昌寺は日野駅からほどちかい場所にあるお寺で、新選組と関わりのあった佐藤彦五朗さんのお墓があります。
”日野市と言えば新選組”なのでお地蔵様も何らかの関わりがありそうですが、年代的に100年近くお地蔵様の方が古いので、何の関係もないのかもしれないですね。
歴史はさておき、地蔵菩薩坐像(坂下地蔵)を見てみましょう。
地蔵堂の扉にはガラスが入ってない部分がありました。
ちょっといけないことをしている気分になりつつも、そこからお地蔵様をのぞかせていただきました。
黒い…お地蔵様と言うより、仏像っぽい。
そもそもお地蔵様の定義って何なんでしょうか。
しかもいくら「銅造」とは言え、300年以上経っているとも思えない、状態の良さに驚きです。
お地蔵さまが祀られている「地蔵堂」は、明治の末期に一度焼け落ちているはずなのですが。
仏のご加護?
坂下地蔵は『延命地蔵尊』とされていますし「信じるものは救われる」ってことで
こんにちは。
日野市民じゃないですが、よろしくお願いします。
と、心の中でつぶやいてみました。
延命はともかく、死ぬまでは元気に過ごしたいものです。
地蔵堂の手前に石でできた水槽?のようなものがあって、水草がもじゃもじゃになっていたので、のぞいてみました。
汚く見えますが、ちっこいメダカがピコピコ泳いでて可愛かった~。
なんと黒いお地蔵さまは御本尊ではありませんでした!(追記)
この記事をアップしたところ、アルテミスさんから、こんなコメントをいただきました。
黒地蔵は、ご本尊ではなく、よくある本尊の前に鎮座されているお前立ちの仏像です。
ご本尊は、白い小さな仏像で、20年に1度御開帳されて、平成15年に御開帳されたみたいですよ。
なんという事でしょう!
白い小さな仏像…めっちゃ見たい👀
アルテミスさんは岡山を中心としたグルメ情報などを発信していらっしゃるのですが、神社仏閣巡りもたくさんしているブロガーさんです。
ネットで調べただけじゃわからない情報ありがとうございました!
飯綱権現社
さて、地蔵菩薩坐像(坂下地蔵)を後にして、日野駅の方へ坂を下っていくと、今度は小さめの鳥居があらわれます。
鳥居には「飯綱大権現」と書かれていました。
飯綱大権現…聞いたことある…それもつい最近
と思ったら、足の爪ひっぱがし事件の原因となった高尾山『薬王院』のご本尊が「飯綱大権現」でした!
階段の上には小さなお堂がありました。
ちょいちょいっと登って行って
中をのぞいてみたのですが、仏様などは見受けられず、ちょっと物置っぽい雰囲気だったので、撮影は控えてみました。
飯綱権現社は、明治21年に甲武鉄道が建設されるまでは、日野駅から見える丘の上にあったんだそう。
階段を百数十段も上がった場所にあったという話です。
地元である日野では「いずなさま」と呼ばれており、やはり飛び飯縄の伝説などからも高尾山と関係が深いと言われていることもわかりました。
飛び飯縄伝説とは、高尾山の薬王院が火災になった際、飯縄大権現が火の玉になって、日野市の飯縄神社まで飛んで逃げたというお話になります。
が、この伝説は日野宿の名主である佐藤家(彦五朗さんち)に伝わっていただけで、実は高尾山の薬王院には全く資料が残っていないんだとか。
飯縄大権現はもともと火事を防ぐ神様でもあるため、薬王院としてはこのような不名誉な話は隠蔽したかった?という仮説を立てている方もいました。
確かに薬王院の『火渡り祭』のページを見ると
授与品の梵天札の説明に「火伏(ひぶせ)の御札として、火を扱う所にお祀りください」という言葉がありました。
あながち、この説は間違ってないのかもしれないですね。
飯綱権現社のすぐ後ろは日野駅のホームです。
電車からも見えるはずなのですが、気がつく人は少ないでしょう。
それにしても、お堂の基礎の部分がレンガなのは珍しいですよね。
このレンガは「日野煉瓦」と言って、現在の場所にうつされた時に使用されたそうです。
「日野煉瓦」について調べてみたところ、日野市には明治22年からたったの2年間だけ操業していた煉瓦工場があったんだとか。
煉瓦工場はつぶれてしまったわけではなく、甲武鉄道(中央線)の開発が進んで行くにつれて、一緒に場所をうつしていったという歴史があります。
2年という短い期間でありながら、飯綱権現社以外にも、日野煉瓦を構造材として使った土台や橋脚が残っているそうですよ。
煉瓦も劣化していき、永久に構造材として利用できるわけではないので、興味がある方は残っているうちに見て回ると良いかもしれないですね。
階段の下で待っていた息子ちゃんが「東京オリンピックって書いてあるよ」と、石柱碑を見つけました。
この場所と東京オリンピックの関連性は…別にないみたいです。
※何か情報をお持ちの方がいたら教えて下さい
豊田駅のロータリー付近にも同じ石柱碑があるらしいので、オリンピックの記念に駅近くに建ててみたのかもしれないですね。
単純に「可愛いお地蔵様いた~」と思って撮影してみた地蔵菩薩坐像(坂下地蔵)と飯綱権現社でしたが、調べてみると興味深い話が色々あって面白かったです。
次に日野駅周辺を訪れた際は、佐藤彦五朗さんのお墓がある宝泉寺や大昌寺にもお参りしてみたいです。
その時はまたご報告しますね。では~。
日野駅へ近くでご飯食べてみる?↓